知らない物語:1032

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インデアンとは:6

◎ジェロニモ◎
《1829.6.16-1909.2.17》

身長は約1m70cm程の中背、身体に8カ所の戦傷を持ち、この傷のせいで
後年は口の右側がたるみ、常に冷笑しているような表情となった。
ジェロニモはアメリカインディアン、アパッチ族のシャーマン、
対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。
なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、酋長ではない。

メキシコ軍に家族が虐殺されたのを機にアパッチ族の
戦士達とともに対白人のゲリラ戦に従事した。
ちなみに戦士集団だったアパッチ族には酋長に戦士が服従する
という義務も風習もない。戦士は結束はしても全て個人行動で
動くものであって、戦士達はジェロニモ個人を慕って抵抗戦を
ともにしたのである。ジェロニモが軍事的な指導をしたこともない。

[ジェロニモの名]

ジェロニモとはスペイン語を母語とするメキシコ人のつけたあだ名
「ヘロニモ」の英語読みで、英語では「ジェローム」に相当する
名前である。アパッチ語の本名は「あくびをする人/眠たがり」
を意味するゴヤスレイだ。アパッチ族などインディアン民族には
他人が実名を呼ぶことを避ける習慣があり、家族以外に
決して教えない「神聖な名前」を持っており、
ジェロニモの場合も当然、これは部族外には伝わっていない。
また、インディアンは伝統的に生涯に何度も名を
変える風習があるので、ジェロニモも彼の本名の1つと言える。

[人物・来歴]

ジェロニモはネドニ・アパッチ族のベドンコヘ・バンドの酋長を
祖父に持つ。祖父はネドニ族から離れ、ミンブレス・アパッチ族の女と
結婚したため、ジェロニモはネドニ族の酋長相続権を失った。

インディアン社会のチーフ/酋長とは交渉の矢面に立つ
調停者のことであって、指導者や首長ではない。
合議制社会であるインディアン部族は首長制ではなく、
アフリカの部族に見られるような部族長は存在しない。

マンガス・コロラダス酋長の属するミンブレス・アパッチ族で、
ジェロニモは山岳戦士としての訓練を積んだ。不眠に耐える訓練、
水を口に含んだまま、これを1度も吐き出さずに往復6kmを超える
山岳地帯を走る訓練、弓矢や投石機の扱いの習得などを経て、
メキシコに遠征しては部族の生業である略奪に励んだ。
アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、夜陰に乗じて
牧場から牛や馬を攫うという手法は部族の美徳とされていた。

1848年、17歳でジェロニモはアロペと結婚する。
後に彼女との間に3人の子供を授かる。

1858年、チワワ州が略奪部族ミンブレス・アパッチ族に対して
和平協定を申し出た。その内容は「年4回、軍駐屯地において毛布、
布地、トウモロコシの粉、メスカル/アパッチ族の大好物を支給する」
というものであった。これに先駆けてメキシコは1837年から
アパッチ族の頭の皮1枚に対し、男で100ペソ、女なら50ペソ、
子供なら25ペソの賞金を懸けていた。このため、アパッチ族は
この申し出を疑ったが、マンガス・コロラダス達は合議の結果、
一隊の派遣を決め、運搬手伝いに女子供も同行することとなった。
ジェロニモは妻のアロペ、老母、幼い子供達の家族総出で
これに加わった。しかし、メキシコ側ではソノラの軍政長官
カラスコ将軍がこれを好機とアパッチの皆殺しを図っていた。

メキシコ北部のヤーノス村に到着したジェロニモらは用心深く
郊外に野営し、町へ向かったが、そこで大歓待を受けた。
すっかり油断した彼らをカラスコの軍が襲ったのは3日後だった。
カラスコは野営を完全包囲した後、これを皆殺しにした。
カラスコは後に「我が軍は130人のインディアンを殺し、
婦女子90人を捕虜にした。チワワ州のメディナ大佐は
これに怒って政府に告訴したが、しばらく待たされた後、こ
の軍事行動は是認された」と語っている。

こうして家族全てをメキシコ人に殺されたジェロニモは遺品を
全て野辺送りにして焼いた。温厚だった彼の性格は
暗く怒りっぽく変わり、メキシコ人への終生の復讐を誓う
獰猛な戦士と変貌した。マンガス・コロラダス達が復讐戦を
決定すると、ジェロニモはアパッチの各支族から戦士を募る
役目を引き受け、彼はチリカワ・アパッチ族のコチーズ酋長の
元を訪ねた。この時、チリカワ族に対して演説を行なった。

「同胞諸君、メキシコ人の不当な行為に関しては既にお聞き及びの
ことと思う。我々もメキシコ人も同じ人間のはずだ。
だから今度は彼らがしたことを我々がやり返してもいいはずだ。
さあ行こう、奴らの住処を襲うのだ。来てもらえるだろうか?
よろしい、さあ、どうかみんな参加してもらいたい」

ジェロニモは次にシェラマドレ山脈の、かつての母族
ネドニ・アパッチ族のジュー酋長を訪ね、メキシコ襲撃の賛同を得た。
アパッチ連合軍はまずソノラ州の富裕な町アリズペを標的と決めた。
襲撃は「ヤーノスの虐殺」の翌年に行なわれた。

アパッチ族は白旗を持って出迎えた騎兵8人を殺し、
メキシコがアパッチにかけた懸賞のお返しに彼らの頭の皮を剥いだ。
こうして後々長きに渡るアパッチとメキシコの戦争がこの時、始まった。
ジェロニモは銃弾の雨の中をものともせずにナイフを片手に
戦場で暴れ狂い、その様を見て畏敬に駆られた1人のメキシコ人が、
守護聖人の「ジェロニモ!」の名を叫んだ。これに呼応して、
人々が口々に「ジェロニモ!」と叫んだ。
こうして、この日この時を境に彼の名は「ジェロニモ」となった。

この戦の後、ジェロニモはチリカワ・アパッチ族の女を妻に迎え、
コチーズ酋長の計らいでチリカワの戦士となった。
その妻は生涯のうちでチーハシュキシュ、ナナサスティス、ジヤー、
シェガ、シュツハシェ、イーテッダ、タアイズスラス、アズールと
数人に及び、それぞれに子供をもうけている。

メキシコと合衆国双方はアパッチの略奪に頭を悩ませ、
何度も遠征を行ない掃討戦を試みた。しかし、山岳ゲリラとも言うべき
彼らの戦いは変幻自在で西部大平原のスー族と並んでアパッチ族は
最後までアメリカ合衆国に抵抗したインディアン民族となった。

数々の戦いの中にジェロニモの姿があった。
彼は雄弁に白人への抵抗を呼びかけ、白人と戦い続けた。
ジェロニモの抵抗戦は情報操作されて東部白人社会に
大げさに伝えられた。数人殺された白人の数は数十人、
数百人となって報じられたのである。

1886年に投降して以後、ジェロニモは生涯米軍の虜囚として扱われた。
生まれ故郷のメキシコ国境へ帰りたいというジェロニモの願いは
叶えられず、オクラホマのシル砦でその一生を閉じた。
ジェロニモの墓はシル砦にあり、インディアン達による
墓前の供物は絶えることがない。


◎ツー・ムーンズ◎
《1847-1917》

ツー・ムーンズは北米インディアンシャイアン族の戦士。
正式な名前はイシャイニシュス/2つの月である。

彼は北部シャイアン族の「狐戦士団」の戦士の1人だった。
父親はアリカラ族のキャリーズ・ザ・オッター。1970年代における、
平原部族の合衆国に対する抵抗戦で活躍した戦士だった。

イシャイニシュスのバンドは1977年に合衆国に降伏し、
保留地への強制移住を受け入れた。イシャイニシュスは
退屈な保留地生活を選ばず、かつての宿敵マイルズ将軍のもとで
インディアン斥候を務めた。イシャイニシュスは白人と
上手く付き合えたのでマイルズの信頼を得、マイルズから
北部シャイアン族インディアン保留地の大酋長に任命された。

マイルズは保留地の指導者として彼にこの役職を与えたが、
インディアン社会には部族を代表する大酋長というような
指導者は存在しない。マイルズの考えとは別にイシャイニシュスは
酋長本来の調停役を務め、リトル・クロウ酋長達のバンドの、
キーオ砦への投降を呼びかけた。

シャイアン族は合衆国によって部族を2つに分断され、
片方がオクラホマへ強制移住させられた。この時代の保留地は
外へ出ることを許されない強制収容所だった。
この中、ダル・ナイフ酋長とリトル・ウルフ酋長は
オクラホマの保留地を脱走し、北の故郷へ絶望的な逃避行を行なった。
この後、イシャイニシュスは白人からシャイアン族の代表に指名され、
保留地条約に署名/×印を書くだけした。

インディアン部族を合衆国に従わせるための政策だった
部族使節団に招かれ、何度かワシントンDCを訪れた。
インディアンの文化を理解できない白人達からは「マナーと
礼儀にユニークな感覚を持った、背の高い人物」と評された。

1914年にはウィルソン合衆国大統領と面会し、劣悪な保留地の
状況について抗議を行なっていて、この後、記念硬貨の
モデルになった。モンタナの高速道路212号線の脇に墓がある。
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by tomhana0909 | 2013-08-01 03:51
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