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補習江戸の秘話:278

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藩政の系譜:38

対馬藩

対馬藩は江戸時代を通じて宗氏が領主として君臨し、
府中藩、厳原藩とも称される。対馬1国の他に肥前、筑前、下野などにも
飛地があり、これら飛地は耕地面積の少ない対馬においては
重要な米穀の生産地でもあった。宗氏は室町時代以降、
実質的な島主として対馬を支配し、戦国期には北九州にまで
戦力を送り戦ったほどだった。その力の背景となっていたのは
朝鮮との間の貿易であった。対馬の歴史は対朝鮮交易を抜きにしては
考えられなかった。耕地面積の少ない対馬にあっては
九州本土よりも地理的に近い朝鮮との交易を独占し、それで得た品を
更に国内各地と交易して、利益を得ていたのである。

当時の朝鮮は日本にとって先進国であり、唯一の外国であった。
ところが豊臣秀吉による対明侵攻作戦によって日本と朝鮮との間に
戦闘が起り、当然にして朝鮮との外交関係は断絶してしまう。
文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮との戦闘は対馬をも荒廃させた。
秀吉が死去し、関ヶ原役では宗氏は西軍に与した。だが戦後、
宗氏に咎めはなく、所領は安堵された。これは対朝鮮復交には
宗氏が必要との徳川家康の判断であったといわれる。
いずれにせよ対馬藩政の初期は対朝鮮との交易の復活が
最重要課題であった。慶長12/1607年に朝鮮使節が来日して
家康、秀忠と会見して国交が回復し、慶長14年には慶長条約が結ばれて
交易が再開された。その後、朝鮮との交易は年を追うごとに
盛んになるが、この間に外交文書である国書が対馬において
改ざんされていたことが判明する。これは長年に渡って
宗氏の重臣であった柳川氏の告発によるものであった。

柳川氏の当主調興が藩主宗義成に反発し、独立を企んで騒動となり、
その過程で国書の改ざんが明らかになったのである。
ことは国家的大事件となり、将軍家光の親裁で柳川調興は
改易配流となり事件は落着した。しかし、対朝鮮交易はその後
下降線を辿る。日本から見て先進国であった朝鮮の技術や交易品が
日本でも開発されてくると、わざわざ輸入する必要もなくなった。
例えば主要な交易品であった高麗人参なども、日本国内で
栽培され始めたのである。また、朝鮮も当時は鎖国であり、
新たな交易品開発の可能性もなかった。これが朝鮮交易が
下降線を辿る大きな原因であった。

一方、朝鮮からは日本に対して度々使節が派遣された。
寛永13/1636年の泰平の賀を祝す使節から通信使の名称が使われ、
寛永20年の第5回以降は将軍の代替わりごとに通信使が派遣されるのが
慣例となった。宗氏はこの通信使護衛の責任者であり、
藩主は通信使を対馬で迎えると使節と一緒に江戸に上った。
この通信使随行は特例として参勤交代を兼ねることとされたが、
外交使節の接遇であり補助はあったものの、その随行接待費用は
莫大であり、対馬藩の財政を圧迫した。
一方、幕府でも通信使応接には莫大な費用がかかることもあり、
寛政10/1798年には朝鮮通信使応接を江戸ではなく対馬に変更した。
このために幕府は対馬藩に対して応接費用8万両を下賜した他、
肥前、筑前、下野国内で2万石を加増した。

このころになるとロシアの軍艦が対馬周辺の海上に頻々と現れ、
文久元/1861年にはロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾内に停泊し、
島民と衝突した。ポサドニック号は結局6カ月余り停泊し、
対馬藩及び幕府の無力が明らかとなる。対馬藩では単独での海防が
不可能と判断して、河内30万石への移封願書を幕府に提出するが、
領内では移封反対の声が高く、これが尊王攘夷論と結びついて
内訌が起る。慶応元/1865年に至り内訌は一応の結着を見るが、
藩論の統一は容易ではなく、混乱した状態で明治を迎えた。

[対馬藩と朝鮮の関係・国交の回復]

豊臣秀吉の朝鮮侵略によって断交状態にあった日朝関係が、
修復に向けて大きく動き出したのは慶長8/1603年のことだった。
日本側では早くから朝鮮との復交を望んだし、朝鮮への依存度の高い
対馬藩にとってはより切実な願いであった。一方朝鮮側でも、
引き続き朝鮮に駐留する明軍の横暴が激しくなるにつれ、
日本と早く修交して明軍撤兵を望む声が高くなってきた。

慶長8/1603年に朝鮮から全継信、孫文惑が対馬に来て
修交交渉が本格化した。朝鮮側は修交の条件として、
日本から朝鮮へ国書を出すことと文禄慶長の役で王陵を荒らした
犯人の引渡しを挙げた。最初の条件である国書の提出は
当時の外交上の慣習では日本が降伏の意思表示をするという
意味だった。幕府としても簡単に受け入れられる条件ではない。
朝鮮との1日も早い修交を望む義智は幕府に相談もなく
勝手に国書を偽造してしまう。更に対馬にいた罪人を
王陵破壊の犯人として朝鮮に引き渡した。朝鮮ではこれらの偽装工作を
全て把握していたが、慶長11年に回答使を派遣することを決め、
翌慶長12年正月に呂祐吉を正使とする使節団が対馬経由で江戸に入った。
この時、正使が持参した朝鮮国王の文書は先の偽造文書への
返書であり、そのまま幕府に提出という訳にはいかず、
義智は今度は朝鮮国王の文書を改作した。

しかし、これをきっかけに交渉が進み、慶長14年5月に
慶長条約が結ばれ、ようやく朝鮮との修交がなった。
条約の内容は第1として日本からの使者は国王使、対馬の島主使、
対馬の受職人/朝鮮の官職を授けられたもののみとする。
第2に対馬から歳遣船は20艘とする。第3に受職人は朝鮮との戦役中に
朝鮮に協力するか戦後捕虜の送還など朝鮮に功績があったものに
限るというのが基本条項だった。日本人の居住は釜山のみに許され、
日本人の応接も釜山で行なわれ、漢城への道は閉ざされた。
慶長16/1611年に戦後初の歳遣船が対馬を出て、通交が再開された。

慶長19年に家康は定期的な朝鮮通信使の来日を求めた。
家康は義智の国書偽造や改作などまったく知る由もなく、
朝鮮との関係も円満であると信じていたようだ。
義智にしてみれば、苦しみながらもようやく朝鮮との修交に
こぎつけたところで、通信使の定期的な派遣など
まだまだの段階であった。なぜなら、朝鮮は明によって
属国化されていて、明が侵略者と断じている日本に使者など
出す訳もなかったからだ。ところが元和元/1615年に
豊臣氏が大阪夏の陣で滅ぶと、朝鮮と明は侵略者豊臣氏を
滅亡させた徳川幕府に好感を抱いた。

[国書の改ざんと柳川一件]

これにより明も軟化して元和3年に朝鮮から回答使として
呉允謙一行400余名が派遣されてきた。この時既に義智は亡く、
その後の義成の代になっていた。日本と朝鮮の間に立って
長年翻弄された義智は元和元年正月3日に豊臣氏の滅亡を
知ることなく没していたのだ。対馬経由で来日した呉允謙一行は
伏見城で2代将軍秀忠と会見したが、この時にまた国書が問題となった。
朝鮮側は国書の署名を「日本国王」とするよう求めてきたが、
秀忠は「日本国源秀忠」と書いた。このために対馬で再び
国書の改作が行なわれ、王の字を付け加える工作がされた。

更に寛永元/1624年に家光の将軍就任を賀する回答使が
来日した際にも、またまた国書の改作が行なわれる。
この時は「日本国主」となっていた署名の点を削って
「日本国王」と偽造された。積み重ねられた国書の偽造は
やがて幕府に発覚することとなった。宗氏の家老の地位にあった
柳川調興が宗義成に不正ありと幕府に訴えたのだ。
柳川氏はもともと商人だったが、先々代調信が宗義調に
見出されて家臣となり、主に朝鮮との外交で活躍した。
調信の子が関ヶ原役の際に疑惑の対象となった景直で、
景直もまた外交面で活躍した。

景直の子が調興であったが、調興は義成と不和となり、
更に調興の所領の件で義成と衝突して幕府へ義成を訴えたのだ。
将軍家光は寛永12/1635年に江戸城で老中列座のもと
義成と調興を対決させた。義成は国書改ざんを隠し切れずに
それを認めた。しかし、朝鮮との外交は柳川氏の所管であり、
また、義成は家督相続時12歳と幼年であったために、国書改ざんへの
関与は否定されて義成へは咎めなく、調興は津軽へ流罪となった。
この事件を柳川一件というが、既に対馬での国書の偽造は
幕府の知るところとなっていて、柳川調興が全ての罪を被ることで、
宗氏の大名の地位を護ったものとされる。

[柳川一件以後]

柳川一件以降は国書への署名は「日本国大君」とされ。
これが幕末期に諸外国が将軍を指す言葉として使った
「タイクーン」の語源となる。寛永元/1624年に
家光の将軍就任祝賀の回答使が来日し、その後は寛永13年に
泰平祝賀、寛永20年と来日があった。以後は全て将軍が
代替わりした際の奉賀の使で、家康が望んだ定期的な通信使は
寛永13年の泰平祝賀以降のことを指すとされる。
通信使一行は正使以下400人台で、釜山から対馬に渡り、
宗氏の案内兼護衛で壱岐を経て瀬戸内海に入り、大坂から
淀川を遡って京に入り、中山道から美濃路、東海道を上って
江戸に達するというのが道筋であった。宗氏は江戸まで
通信使と行動を共にし、この江戸入りを参勤に代える特例だった。

この朝鮮通信使接待の為の出費で、対馬藩の財政は苦しかった。
享保5/1720年に藩主義誠は倹約令を出しているが、この頃から
朝鮮との交易の旨味も次第に失われていった。
対馬藩は10万石格の国主大名だったが、対馬1国の実高は2万石程度で
対馬は山がちで耕地に乏しく新田開発は不可能だった。
肥前田代に1万2800石の飛地を持っていたが、財政の窮乏は著しく、
文政元/1817年に幕府は肥前、筑前、下野に合せて2万石の飛地を
加増した。これらによって対馬藩はよいやく領民を養い、
通信使の接待を行なうことができたのである。

宗氏にとって朝鮮交易は最大の特権だったが、先に書いたように
やがてその旨味は薄れていった。最大の理由は朝鮮から得るものが
少なくなっていったことである。日本から見てかつては先進国で
あった朝鮮も鎖国体制であったために進歩がなく、やがて日本が
追いついてくると朝鮮は取り得のない国に成り下がってしまう。
例えば高価な輸入品であった朝鮮人参も国内で栽培され、
何も朝鮮から輸入する必要はなくなってしまった。
更に通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏し、
宗氏の衰弱に繋がっていった。
by tomhana0909 | 2013-08-01 03:53
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